傷害・準強姦被告事件控訴審第3回公判調書(名古屋高裁金沢支部)

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控訴審の流れ(名古屋高裁金沢支部:平成4年9月から平成5年9月7日)

 この資料は二回の公判に分かれていると思います。前半がkousosinn-bennronnyousi_16までですが、これは精神鑑定を受ける前の公判で平成5年の2月頃、あるいは平成4年の12月の公判ではないかと考えられます。

 後半がその後kousosinn-bennronnyousi_24までです。こちらは最後に平成5年7月26日という日付が確認できます。

 平成4,5年当時のことなので記憶もずいぶんと薄れていますが、現在の記憶において控訴審の公判の流れというのは、初公判が平成4年の9月の中頃、この初公判の裁判長は浜田武律裁判官でした。次回公判が同年10月中頃ぐらいで、このとき裁判長が小島裕史裁判官になっていました。

 平成5年は12月にも公判があったと思います。平成6年は2月に公判があり、この時に精神鑑定実施の決定が出たと思います。金沢大学付属病院で精神鑑定が行われたのは平成5年の3月1日から同月31日までです。3月1日の2週間から3週間ほど前に決定が出たように記憶しています。公判の最終局面で3人の裁判官がいったん退席し、3分か5分後に戻って口頭で決定の告知を行いました。

 次回公判は、精神鑑定が終わったと2,3ヶ月経ってからだったと思います。5月の下旬か6月中だったと思います。

 判決が出たのは平成5年9月7日でした。その一月ぐらい前にも公判があり、これが7月26日だったのではと思われます。この時の公判で印象的だったのは被害者の父親とともに母親と思われる女性が傍聴席にいたことです。判決公判は判決の言い渡しだけでしたが、それまでほぼ欠かさず傍聴席にいた被害者の父親の姿もなかったのも印象的でした。

 なお、金沢地方裁判所での一審の時は被害者の家族の姿はありませんでした。初めに父親の姿を見たのは小島裕史裁判長が交代になったときの公判だったと思います。被害者の兄と思われる人も一緒にいて、退廷の際、「本当に反省しとるんか。殺してやる。」などと暴れ出したことにより、自分は刑務官らに抱えらながら小走りで控え室に戻されました。このことがあって以降、公判では弁護人の席の前の長椅子に座らされるようになりました。当時は異例の措置だったのではないかとも考えられます。

 金沢地方裁判所の判決があったのが平成4年8月3日でしたが、同年8月17日頃には私選弁護人となった木梨松嗣弁護士と接見をしたこともはっきりと記憶しています。MHKが初めで最後の面会に来たのも同日だったように記憶しています。あるいは一日ぐらい前後しているかもしれないのですが、京都の親戚の人も面会に来て、刑務官に面会は一日一回と決まっているのだからしっかり連絡をしておくようにときつく注意を受けたことも憶えています。